札幌市の西側に連なる山々の中で、ひときわ高くそびえる手稲山。
1023mの山頂に放送局の送信アンテナが林立していることから、遠くからでもそれとすぐわかるこの山は、札幌市のシンボルと言ってもいい山だ。
北海道における登山とスキーの発祥の地と言われており、1972年札幌冬季オリンピックではアルペン(回転・大回転)、リュージュ、ボブスレーの会場となった。
民有林であるためオリンピックを機に開発が進み、北面にはスキー場やゴルフ場があり、かつては遊園地もあった。
しかし、そこに大倉山、宮の森、荒井山に次ぐ札幌市所有の第4のジャンプ台があることを知る人は少ない。
- 探訪日:2015年(平成27年)5月24日
- 例によって、そのうち記事にしようと思ったまま随分と日が経ってしまいました。
- 7年前の様子を記事にしていますので、現在とは異なる点もあるかもしれません。
手稲山シャンツェは、荒井山に次ぐ市内2台目のスモールヒルとしてテイネオリンピアスキー場の聖火台ゲレンデ(現在はサッポロテイネ聖火台オーシャンダイブ)横に1999年(平成11年)12月24日に開設された。
ヒルサイズは33m。K点は30m。
荒井山のスモールヒルよりもHSで6m、K点で5m大きい。
ただ、プラスチック化はされていないので夏季は使用できない。
正面にはゴルフ場。その向こうには手稲の街並みと遠くには石狩湾が望める。
これまでは、手稲山シャンツェジュニアジャンプ大会が開催されてきたが、コロナの影響もあってか、第18回大会(2017年)以降は開催されていないようだ。
最近では2022年3月に札幌ジャンプスポーツ少年団主催の第34回スキージャンプ体験交流大会が開催された他、練習などにも使われている模様。
さて、周辺を探訪してみると、手稲山の栄枯盛衰が見て取れる。
手稲山では、冬季オリンピック招致への機運が高まる1965年に複数の企業によりテイネオリンピアが設立され、北面の中腹にスキー場、ゴルフ場、遊園地がオープンした。
1970年、札幌市はオリンピックに向けて北面5合目と山頂を結ぶロープウェイを設置。アルペン競技の選手や関係者の輸送に使われ、その後は一般に開放された。
オリンピック終了後の1974年にはアルペンコースを中心にテイネハイランドスキー場がオープン。
手稲山は 栄華を極めるに至った。
しかし、1990年代のスキーブームが終焉を迎えると収益が悪化。
紆余曲折を経て2005年に2つのスキー場が統合されサッポロテイネとして生まれ変わった。
華やかに生まれ変わったかに見えるスキー場。
一方で、2008年にロープウェイは運行を止め、遊園地も営業を取りやめた。
オリンピックの遺構も、そこかしこに見られる。
そして、最後に紹介する遺構は聖火台。
2020東京オリンピックでは「レガシー」という言葉を盛んに耳にした。
オリンピックのレガシーとはオリンピックの開催後に残る有形無形のものを言うらしい。
有形なものとしては、交通や社会インフラの他にもちろん競技施設が含まれる。
1972札幌オリンピックで使われた施設としては、大倉山と宮の森の両ジャンプ台をはじめ、真駒内屋外競技場(開会式、スピードスケート)、同屋内競技場(閉会式、フィギアスケート、アイスホッケー)、美香保体育館(フィギアスケート)、月寒体育館(アイスホッケー)などが、形を変えながらも今も活用されている。
一方で、手稲山で見たオリンピック施設の末路はあまりに寂しい。
折しも、札幌市は2030年冬季大会の招致に躍起。
レガシーの意味について改めて考えさせられる
手稲山シャンツェのすぐ横のゲレンデの一部では、冬季間、子供向けにソリ遊びやスノーチューブなどができる「恐竜キッズパーク」が開園するらしい。
恐竜たちは、2004年に閉園した恐竜パーク木更津から移住(?)してきたものとのこと。
彼らの姿にもどこか哀愁が漂うように見えてしまう。
考え過ぎだろうか。
小学校の同級生だったKちゃん。
近所に住んでいたこともあって登下校を毎日ともにする、親友と言える間柄だった。
Kちゃんのご両親はアクティブな方たちで、夏は登山、冬はスキーなどによく一緒に連れて行ってくれた。
手稲山の平和の滝コースから初めて登頂したのは小学5年生の頃。その後も中学生ぐらいまでの間に何度か手稲山には登った。
初めてスキー場に行ったのも手稲山。連れて行ってくれるのは決まってテイネハイランドスキー場。Kちゃん一家がシーズン券を持っていたからだ。
テイネハイランドは、オリンピックの回転・大回転競技が行われた場所でもあるので、ハの字滑りしかできない私にはあまりにもレベルが高すぎた。
国内屈指の難コース「北壁」に無謀にも挑んだことは今となっては良い思い出。
Kちゃんはとにかくスキーが上手かった。
それもそのはず。
彼はテイネハイランドで行われていた三浦雄一郎スキースクールでレッスンを受けていた。
Kちゃんとは同じ中学に進み同じ高校を卒業した。
小学生の頃のようにいつも一緒にいるという関係性ではなくなったが、友達であることに変わりはなかった。
別々の大学に進んだが将来の夢は一緒だった。
やがて、Kちゃんが大学を中退したことをKちゃんのお母さんから知らされた。そして、そのまま単身海外に渡ったことも。
その後何年も経ってから風の便りに聞いた。
Kちゃんが、その世界では名の知れたプロスキーヤーとして活躍していることを。