ぶらりシャンツェ探訪2 旧竹鶴シャンツェ(桜ヶ丘シャンツェ)

スポーツを見て泣くことはあっても、映画やドラマでは泣けない私。
けど、NHK朝ドラ「マッサン」の最終回は不覚にも泣いてしまった。
それも号泣と言っていいレベルで。

泣いたのは本編ではなく、本編終了後にいつも入る「私たち国際結婚です!」の写真。
見た方はわかると思うけど、最終回のこれにはいつもと違う趣向が凝らしてあった。
なぜだかこれが琴線に触れた。もう、一気に涙腺が決壊。

今まで、「ゲゲゲ」も「じぇじぇじぇ」も、とにかく朝ドラというものはただの一話たりとも見たことが無かった。
でも「マッサン」は別。
制作が決まってから初回放送を指折り数えて待ち続け、スタートしてからも毎回毎回楽しみで仕方が無かった。

なぜそこまで?
理由はマッサンのモデルであるニッカウヰスキー創業者:竹鶴政孝が日本のスキージャンプ発展に多大な功績を残した人だから。
残念ながらドラマの中ではその点に触れられることはなかった。
けど、それでよし。
あれもこれも描き始めると物語の焦点がぼやけるからね。

さて、その竹鶴政孝が旧制余市中学校(現在の余市紅志高校)の校長に頼まれて1941年(昭和16年)に寄贈したのが竹鶴シャンツェ。
元々は桜ヶ丘シャンツェと呼ばれており、当初は30m級だったようだ。

  • 探訪日:2013年11月16日
  • 2015年3月に公開した記事ですが、この度(2020年6月)リライトしました。
  • 画像サイズも大きくし、新たに数枚追加しています。
  • ちなみに、「マッサン」以降の朝ドラも全く見ていません。
旧竹鶴シャンツェ sora色ジャンプ

奥の山肌にシャンツェが写っているのがお分かりいただけるであろうか?

旧竹鶴シャンツェ sora色ジャンプ

ほら。

旧竹鶴シャンツェ sora色ジャンプ

ね。

桜ヶ丘シャンツェという名称は、少なくとも昭和40年代前半までは使われていたようだ。
1972年(昭和47年)の札幌オリンピック後に40m級に改装されたが、その頃には竹鶴シャンツェと呼ばれるようになっていたようだ。

40m級に改装された際に、向かって右横に新たに20m級のシャンツェが作られた。
新シャンツェは、当時ニッカウヰスキー余市工場に勤務し、札幌オリンピック70m級で見事に金メダルに輝いた笠谷幸生氏の偉業をたたえ、笠谷シャンツェと名付けられた。

残念ながら、旧笠谷シャンツェはほぼ確認できないが、旧竹鶴シャンツェはかなり原形を保った形で残されている。

旧竹鶴シャンツェ sora色ジャンプ

ランディングバーンもご覧の通り。

旧竹鶴シャンツェ sora色ジャンプ

バーンのサイドはきちんと造作で仕切られている様が見て取れる。

旧竹鶴シャンツェ sora色ジャンプ
旧竹鶴シャンツェ sora色ジャンプ
旧竹鶴シャンツェ sora色ジャンプ

ともに余市出身で、1998年長野オリンピックで金メダリストとなった斎藤浩哉氏と船木和喜も、少年時代に旧竹鶴シャンツェと旧笠谷シャンツェで練習に励んでいたという。

歴史に名を残すジャンパーたちを育てたシャンツェではあったが、2000年(平成12年)に、目の前を流れるヌッチ川の改修により、南に200mほどの現在の竹鶴シャンツェ・笠谷シャンツェがある場所に移設された。

つまり、この写真を撮影した13年前までは使われていた台。
そう知ったうえで見れば、原形を保った形で残されていることもそれほど不思議ではない。

旧竹鶴シャンツェ sora色ジャンプ
旧竹鶴シャンツェ sora色ジャンプ

手前に写る柵の下がヌッチ川。
ブレーキングトラックは完全に川に遮られてしまった。
移設もやむなしだったであろう。

さて、「マッサン」以降、私の晩酌の主役はウィスキーに変わった。
もちろんニッカ。
ちなみに我が家では、乳製品は雪印メグミルク、入浴剤はバスクリン、クルマはスバルだ。

私のこのささやかなお買い上げが、日本ジャンプ界の強化と発展に少しは寄与していると信じたい。

最後に新旧の竹鶴シャンツェ。

旧竹鶴シャンツェ sora色ジャンプ