スキージャンプの結果を下手な写真でお伝えするブログです

ぶらりシャンツェ探訪5 函館市民運動場のシャンツェ

函館山の麓にかつてジャンプ台があったことを知ったのは、たまたま見つけた次の記事による。
そこには、1940年(昭和15年)に函館山の麓に完成した野球場の右翼スタンドに小型シャンツェがあったと書かれている。

これは行ってみねばなるまい。
とはいえ、札幌から函館までは高速を使っても300Km・4時間はかかる。
ようようやく行けたのは昨年。令和になりたての2019年のGW。

  • 探訪日:2019年(令和元年)5月3日
  • 毎年GWには趣味のキャンプに出掛けるのですが、この時期の北海道はまだ寒いため、できる限り南を目指します。こうして訪れたのが函館でした。
  • コロナ禍の今年のGWはもちろんステイホーム。
    あぁ、早くキャンプに行きたい…

ジャンプ台があったのは、現在の函館市立青柳中学校の敷地内。函館山ロープウェイ山麓駅から歩いて5分とかからない場所だ。
この中学校は、2018年(平成30年)に統廃合されるまでは潮見中学校と呼ばれていたようだ。
その潮見中学校が建てられる前にこの場所にあったのが函館市民運動場。今も青柳中学校横の道路脇に記念碑が立つ。

函館市民運動場は、収容人員3,500人の規模を誇る野球場の他にテニスコートなどを備えた大運動施設として1940年(昭和15年)に完成したらしい。
テニスコートは元々この場所にあったもので、その開設は明治時代にまで遡るらしい。しかも、青柳市民庭球場として今も函館市民に利用されている”現役”のテニスコートだ。

前掲の朝日新聞デジタルの記事中に、函館市民運動場の平面図が掲載されている。
図面上の野球場にはバックネット裏と1塁側・3塁側にそれぞれ観戦スタンドと思しき形状が見られるが、現在ここに建つ中学校の校舎はこの形状をイメージして作られたらしい。
そして、図面右上にテニスコート。そこからグランド(野球場の右翼)に向けて斜めに下りるジャンプ台がはっきりと描かれている。

Googleで現在の青柳中学校を上空から眺めてみると、かつての観戦スタンドを模した校舎の形状がよくわかる。1塁側の校舎の先にあるのは体育館だろう。
その体育館の左斜め上に見えるのがテニスコート。
先ほどの平面図と符合させると、ジャンプ台はテニスコートの左下角あたりから体育館の下あたりに向けて設置されていたということになるだろう。

ジャンプ台のプロフィールは不明だが、記事中に「22メートルを飛んだ」とある。
野球部員だったというこの方のジャンパーとしての実力が如何ほどかわからないので何とも言えないが、荒井山のスモールヒルのK点が25mなので、イメージとしてはそれぐらいの規模だったのではないか。
ただ、テニスコートとグランドの高低差がそれほどあるわけではないので、もう少し小ぶりだったか、あるいは嵩上げのためにそれなりの高さのやぐらが組まれていのかもしれない。

校門から見たバックネット裏スタンド部分の校舎。
右に斜めに配置されているのが1塁側スタンド部分の校舎。
右の赤い建物はマンション。その左奥側にテニスコートがある。
ジャンプ台があったのは、緑の茂みの奥あたりと思われる。
校門横から写真右の”けもの道”を上ってみる。
ここを上るとテニスコートに出る。
テニスコートを背にして、茂みの向こうに体育館とグランドの一部を望む。
(かなりわかりにくいと思うけど)

たぶん、上の写真のもう少し右手にジャンプ台のスタート地点があったんじゃないかと思う。
何らかの痕跡が残っていないかと探してみたけれど、残念ながらそれらしいものは見つけられなかった。
ところが…

下はストリートビュー。
左に見えるのはテニスコートのトイレと金網フェンス。
上の写真を撮ったのは、この金網フェンスを背にした辺り。
で、このストリートビューをよーく見てみると…

茂みの中に青い花(葉?)の植物が見える。
で、その下に、白い棒状のものが見えるよね?
ただの倒木? それとも…
そこで、先ほどの自分で撮った写真を拡大してみた。

左下から右上の対角線上に棒状のものが横たわっているが…
ただ、ストリートビューに映っているものと同一のものかどうかはわからない。

う~ん… やっぱり倒木かなぁ…
この日はカミさんも一緒だったので、藪の中に押し入るダンナの変態チックな姿を見せることははばかられたんだよね。だから、割とあっさりと引き上げてしまった。

リベンジせねば…


ところで、前掲の朝日新聞デジタルの記事によると、この函館市民運動は久慈くじ次郎じろうなる人物が設計したとある。
で、調べてみると、この久慈次郎という人、なかなかの人物のようだ。

久慈次郎(1898-1939)
  • 1898年(明治31年)青森生まれ・盛岡育ち
  • 早稲田大学卒業後、函館の会社に就職し、社会人野球チームの函館太洋倶楽部(函館オーシャンクラブ)に所属し捕手として活躍。
  • 1934年(昭和9年)アメリカ選抜チームが来日するために結成された全日本チームに召集され、沢村栄治やスタルヒンとバッテリーを組みベーブ・ルースやルー・ゲーリッグらと対戦。
  • 同年に、全日本チームを核としたプロチーム大日本東京野球倶楽部(のちの巨人)に主将として加入を求められるも辞退。ただし記録上は初代主将として名前が残る。
  • 辞退した理由は、大火災によりダメージを負った函館を離れることをためらったため。
  • 同年、欠員が生じた函館市議会議員選挙に周囲に推されて出馬し当選。
  • 野球人気の高まりから函館市民から要望が高かった野球場を核とした函館市民運動場を自ら設計・施工。
  • 1939年(昭和14年)札幌円山球場にて行われた試合中の怪我が原因で2日後に死去。享年40歳。
  • 1940年(昭和15年)久慈の死から1年後に函館市民運動場が完成。

久慈を死に至らしめた札幌円山球場での怪我が壮絶。(ちなみに札幌円山球場は大倉山ジャンプ競技場から車で5分ほどの場所にある)
選手兼監督だった久慈が、敬遠四球で1塁に歩く際に、バッターボックス上で次の打者に指示を与えようと振りむいたところに、相手キャッチャーが2塁ランナーの飛び出しに向けて送球しようとした牽制球がこめかみに直撃。
そのまま動かなくなり病院に搬送されたが、脳出血で2日後に亡くなったというものらしい。

函館市民運動場跡地のすぐそばに建つ函館護国神社からは海が見える。
ジャンプ台のスタートゲートからは海が見えたであろうか。
いずれにしても久慈次郎はその景色を見ることなく逝去した。

函館護国神社

彼の功績をたたえ、1947年(昭和22年)からは都市対抗野球大会において敢闘賞にあたる「久慈賞」が創設され、1959年(昭和34年)に創設された野球殿堂においては、沢村栄治らとともに第1回の殿堂入りを果たした。

函館駅から五稜郭公園に向かう途中にある千代台ちよがだい公園オーシャンスタジアムに「球聖久慈次郎の像」がある。
この像の久慈はミットを構えているのだが、かつて全日本チームでバッテリーを組んだスタルヒンの像が建つ旭川スタルヒン球場の方角を向いているらしい。

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