旭川市の中心部から西方5kmほどにある嵐山公園。
昭和40年に風致公園として開園したもので、明治期に開拓使が視察に訪れた際に、京都の嵐山に似ていることから名付けたとされている。
嵐山シャンツェは、この嵐山公園の一角で自らの行く末を憂いるように年輪を刻み続けている。
- 探訪日:2013年(平成25年)7月28日
- そのうち記事にしようと思ったまま7年が過ぎてしまいました。
- 名寄でのサマー大会の帰路に立ち寄りましたが、薄曇りで廃墟感が際立ち、また、ヒグマの心配もあったので少し怖かった覚えがあります。
- なお、ジャンプ台の写真は7年前のものなので、今とは状態が異なるかもしれません。
嵐山シャンツェの誕生は1966年(昭和41年)。
同じ年に、嵐山市民スキー場(2006年閉鎖)が開設されており、嵐山シャンツェもこれと同時にスキー場内に誕生したようだ。
旭川では、1936年(昭和11年)に伊之沢シャンツェ、1954年(昭和29年)に雨紛シャンツェが既に完成していたが、嵐山シャンツェがあるのは旭川市に隣接する鷹栖町なので厳密には旭川のシャンツェではない。
ただし、嵐山市民スキー場を含めて運営管理は旭川市が行っていたようだ。
現在(撮影した2013年時点)は、K76(70m級)とK50(40m級)の二つの台が並ぶが、旭川市史によると誕生当初は60m級だったと記載されている。
60m級がいつ70m級に変わったのか、40m級はいつできたのか。
資料が少なく、しかもやや情報が錯綜していることもあって、その生い立ちには不明瞭な部分も多い。
嵐山シャンツェが完成した2日後には「第1回雪印杯全日本ジヤンプ旭川大会」が開催されていることと、1984年(昭和59年)の第19回大会までは、『嵐山シャンツェ』ではなく『嵐山雪印シャンツェ』と表記されていたことから、このシャンツェの建設には雪印乳業(現:雪印メグミルク)による何らかの関与があったのかもしれない。
また、第1回雪印杯の1ヵ月後の2月20日に『第21回剛健国体』の舞台として使われていることから、元々はこの国体誘致のために作られた台だったとも推測される。
なお、国体の舞台としては、1989年(平成元年)『第44回はまなす国体』でも使用されている。
雪印杯全日本ジヤンプ旭川大会は、創設当初から成年の部と少年の部が行われ、1977年(昭和52年)の第12回大会からジュニアの部が、2000年(平成12年)の第34回大会から女子の部が加わった。なお、この第34回大会は、全日本レベルの国内大会として複数の選手が出場して女子の部が開催された史上初めての大会である。
旭川で唯一の常設大会として、ほぼ毎年開催されていたが、2004年(平成16年)の第38回大会をもって廃止。
背景には、雪印乳業の不祥事や、シャンツェの老朽化などの問題があったようだ。
以後、嵐山シャンツェでは大きな大会は開催されていないはず。
嵐山市民スキー場には開設当初リフトがなかったようだが、2年後の1968年(昭和43年)からリフトの営業が開始された。
この時にはごく普通のリフトだったが、その後1984年(昭和59年)にシャンツェの拡張工事を行ったことでリフトを移設せざるを得なくなり、傾斜の問題で全国的にも珍しい屈曲リフトに変えられた。
屈曲リフトは、ジャンプ台の向かって右側の斜面を昇り、途中でジャンプ台を回り込むように左に屈曲し、ジャンプ台の裏手に向けて架けられていたらしい。
嵐山市民スキー場は、資金等の関係により2006年2月をもって40年の歴史に幕を下ろした。
旭川市は、スキー場の閉鎖以降もシャンツェを存続させる考えであったようだ。実際、2010年頃までは練習などに使われていたらしい。
しかし、存続のためには、施設の老朽化や現在の全日本スキー連盟の公認規格に合わないことから大規模な改修が不可欠。
一方、自然環境保護の観点から、ジャンプ台を撤去し、スキー場跡地も含めて本来の自然環境に復元することを望む声もあり、意見の一致をみていない。
改修でも撤去でも多額の費用が発生することもあり、そのまま野ざらし状態となってしまっているというのが実情のようだ。
産廃業者なのだろうか? 敷地内の一角には山のように廃棄物が集積されている。
おかげで廃墟感が倍増。
自然環境保護を言うなら、まずはこれから何とかしたい。
2015年(平成27年)に、旭川ジャンプ少年団が20数年ぶりに復活した。
代表兼監督の加藤大さん(複合でバンクーバー、ソチの両五輪に出場した加藤大平さんの弟)は当初、嵐山シャンツェのK50を活動拠点としたいと語っていた。
しかし、実際は、冬は和寒東山を夏は朝日三望台を使っており、実現には至っていないようだ。
嵐山シャンツェの行く末やいかに。